「嫌われる勇気」と人生の幸福の連関について
僕はトラウマの人でした。人生で2度、精神的に潰れた経験があり、それがまるで骨折癖のように、僕の心を弱らせ、またいつかぽっきりと折れてしまうのではないか。そういう恐怖感が、常に心の奥底、どこかにありました。もう一度全力を出した時、もう戻ってこれない致命的な傷を負うんじゃないか、そういう危機感があり、常に何事にも打ち込めませんでした。そう「信じていました」。ただ、それは「言い訳」であり、本当の本心は変わらず、そうなりたいと願っていたのは自分自身ではないか、いや、自分自身だったと理解するに至りました。要は、成果の出ない自分、鳴かず飛ばずの自分に向き合うのが辛くて、「至極真っ当な理由で全力の出せない」「悲劇のヒーロー像」を自分自身の姿として作り上げていました。きっと「トラウマは関係ない」、というより、「トラウマなんて存在しない」のです。それは自分の本心を代わりに浮かび上がらせる炙り火にすぎません。本当は「一刻も早くこの辛い事態から抜け出したい」「大変だったね(君は悪くないよ)」と声をかけてもらいたい、それに付随する出来事、そして、記憶の取捨選択、物語の編み上げだったように思います。辛い現実ですね。この事実に向き合うのは本当に辛いです。
しかし、思考法を転換すると、様々なことが綺麗に説明できます。「旅行に行く友人を羨む」のに、「家に閉じこもり、コードを書く自分」。それは旅行に行く手間や旅先で人と過ごす時間を考えると、そのコストを払うよりも、今の平穏な環境で自分の好きなことをしていたい、という思いが勝った結果といえます。人に言うにはあまりに恥ずかしく、それでいて自分の本心を綺麗に説明した文言といえます。確かに僕は本心ではそう思っていると納得できます。ただ、ここからが問題で、僕はそこから抜け出すこともできるんです。要は、「旅行に行けばいい」。つまり、預金口座から必要費用を引き出し、友達と旅程を組み、電車でも、飛行機でも乗ればいい。旅先の生活を満喫すればいい。お金がないなら、友達がいないなら、稼げばいい、誘えばいい。問題は方向性。そちらに踏み出しているか、が問題です。そして、それを妨げているのは、常に自分の価値観と勇気です。自分の判断や決断を良しと思っている人、抜け出したいと思っている人、様々だと思いますが、恐らく自分の行動を意識する時点で、何かしら良くないなと思っているはずです。その時大切なのは、勇気です。今まで慣れ親しんだ生活やリズムから抜け出して、何かを失う決断、自分が傷つく決断をできる、勇気だと思います。
ただ、勇気を出すのはとても難しいことです。そもそも何かを拒否して、今の状態にとどまっていたわけですから、そこから抜け出すには痛みを伴います。では、なぜ抜け出すか。それは頭の中にある理想像と現実の自分に乖離があるからです。そもそも自分を正しく認識していない内は、現実と理想の間の絶望的な隔たりに気づかずにすみます。「自分は人当たりがよく、行こうと思えばいつでも旅行にいける。ただ、そうはせず、自分の理想のために贅沢をそぎ落とし、毎日研鑽に励む(そんな自分は偉い。報われるべきだ)」くらいに勘違いの思い込みを続けていた時は、そのまま明後日の方向に突き進み続けて、そして、特に成果も出ない日々に、「あれ、おかしいなぁ。」くらいに思っていました。現実は全く違います。「人と旅行にいくのがなんだか煩わしい。自分が旅行に行ってる間にライバルは遥か先に行ってしまうのではないか、少し気を許した隙に自分はバトンを落としてしまうのではないか(明確なライバルなんて、そもそも存在し得るのか疑問ですし、そもそもやりたいことも特にないのに一体何を頑張るのかよくわかりません。それくらいかつての自分は自分を見失い、仮想敵に怯え、虚構に生き、自分を苦しめていました。でも、これって実はみんな本当はそうですよね))」というのが実態です。これ、実際に言葉にするのは怖いですよね。受け入れるのも、僕は怖いです。でも、実際そうだった。そうなると、「人生を謳歌し、毎日を生き生きと過ごし、理想に燃え、慈しみを持ち、人に愛される生活を送る」とはほど遠い生き方です。ちょっと惨めな生物くらいの勢いです。ただ、しかし、これでやっとスタート地点に立てた。目標がすっきりしました。旅行に行きたいならいけばいいし、それにお金が足りないなら稼げばいいし、稼げないならそれを甘んじて受け入れることを自覚すべきだし、旅行に行ってる間に何かがおろそかになるなら、両立プランを立てるか、どちらかを諦めて、一つに集中してより大切な幸福に注力する。それがネクストステップです。それができないのは、勇気が足りないのに他ありません(僕の場合)。やればいい。行動を妨げているのは、自分が傷つくことを恐れる、ちっぽけな、取るに足らない自尊心です。そんな自尊心捨ててしまえ。その時、より大きな世界が開けるのだから。
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自分の幸福を意識し、追求することは、時に苦難を伴います。今参加している企画で一番になりたい、誰よりも利益を上げる事業を創造したい、様々な目標があるでしょう。そして、そのためには我慢や忍耐、凄まじい努力も求められます。ただ、これはスポーツに似ていると思っていて、久しぶりに流す汗には爽快感があります。目標に向けて、走り抜けた時、それに似た達成感があり、僕はそれを好みます。
一番を目指すために全力を尽くすのも実は大変です。全力を出さないうちは、「可能性の中に生き」られます。「全力を出せば、結果はわからない」「今回は全力を出さなかっただけ」。全力を出した時、負ければ、それは自分の限界を意味します。全力を出して、負ければ、誰がなんと言おうと、負けたのです。その事実がなかなか受け入れられない。全力を出して限界を知るよりも、全力を出さずに2位以下に甘んじることを選ぶのです、時に。でも、自分の限界を知ることがこそが最初のステップですし、全力を出した時の学びは全力を出さなければ得られないもので、逆説的ですが、全力を出すことは、どの角度から考えても大切だったりします。それをちっぽけな自尊心が邪魔するのはなんとももったいない。勝負慣れが必要かもしれません。たくさん敗退した先に、勝利がある気もしています。
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とにかく、最初にも書いたように、これまでの自分の欺瞞の人生は霧が晴れようとしています。そして、霧が晴れた途端に思ったのですが、自分がやりたいことをやる時のエネルギーは凄まじいです。やりたいことをやるというのはこれほどすごいことなのかと思います。こうしたエネルギーがなければ、困難も乗り越えられないなと思います。僕はそれを無理やりひねり出していたからこそ、すぐに精神的疲弊(という名の逃亡衝動)を迎え、休み(という名の勝手な休養)を求めていたのだと思います。Be honest. 自分に正直であることが大切ですね。
で、これは皆さんに伝えたいのですが、案外人間は弱く、ここに書いた僕の体験談は、実は皆がうんうんと頷く事象で、多くの人に共通しています。これはたぶんどれだけ高尚に見える人でもそうなんじゃないかな。それくらい人間の精神・心理構造は変わらないと思います。そして、案外こうしたことを話しても人は軽蔑しません。まあ、そうだよね、という反応を見せて、そして、そこから議論が始まります。自分の気も楽になります。そこで軽蔑する人は、所詮付き合うべき人ではなかったということだと思います。そうそう、そのコストも払えるか。八方美人は最大幸福量を下げます。嫌われるべき人に嫌われ、好きな人と関係性を築く。この方針を貫けるかが大切な気もします。「嫌われる勇気」。勇気を持った時、人はより幸せになれると思います。
自分と同じように、虚栄の虚像に自分を毀損させ、己の人生を歩めていないと考えている、プライドが高くて、ちょっぴりくそ真面目な、世界中の誰かへ。
ではでは。