世の中の仕組みと、自分の位置づけについて --知らないと怖い、この世の構造--
特に、まとまっているわけではないけど、ふんわり考えがおりてきたので、忘れないために、形にするために書いてみる。
僕は昔から「この世の中はどういう風に動いているんだ?」ということに関心があった。どうやらこれは変わっているらしく、普通、こういうことに関心を持つ人は少ない。だから、これは僕の趣味ということにしている。
海外で過ごした僕の幼少期
とにかく、僕には昔から、この国はどういう風に動いているのか、ということに強い関心があった。それは持ち前の好奇心が、特殊な方向に作用した影響なのかもしれない。というのも、昔のエントリで触れたが(日本の権力構造について --この世を動かす限られた人間と、その思想--)、僕は幼少期を海外で過ごし、その頃に郵政改革、9・11などを経験したため、「世の中、何かすごいことが起きているけれども、何がすごいのか、そして、何が起こっているのか、誰に聞いてもわからない」という事態を経験したからだ。その後、リーマンショックも経験したのだが、もちろんリーマンショックも何が生じたかわからなかったものの、その時には、自分を取り巻く環境が変わり、志高い友人や優れた大学教員からの指導を享受し、その概要を理解することができた。つまり、僕の幼少期と比べて、周りの知的リソースが変化した、と言える。(以前は家族、同世代の子供、小学校の先生しか、周りにいなかった。インターネットも自分の周りにはなかったので、どんな本を読めばいいのかもわからなかった)そう、僕には世の中に対する不思議な好奇心があり、それは今も変わらぬ、僕の傾向だった。変わったのは環境だけだ。
どうやら僕には、世の中で何か大きな出来事が生じると、その仕組みや全貌を理解したい、という強い想いがあるらしい。それはテレビっ子、という僕の事情も影響していると思う。毎日テレビを見て、僕は必ず、何かしらを考えていた。その中で、僕を強烈に引きつけたもの、それが郵政改革、9・11、リーマンショックだった。しかし、先ほども書いたが、徐々に環境が変化した。少なからず自分に知性がついたし、何か学ぼうとすれば情報が手に入る環境にも移っていった。その環境とは、言うまでもなく、大学である。大学では、学友とでも呼ぶような知性の高い友人に恵まれたし、とにかく書物には困らなかったし、一応、授業というものも存在した。また、直接的に知識を授けてくれる先生もいれば、間接的に自分の知的好奇心を刺激する形で導いてくれる先生方もいた。僕のこれまでの疑問を解消できるチャンスが手に入ったのである。
知性に囲まれた大学時代
だからこそ、僕はよく勉強した。というより、わからないものを知るために、片っ端から情報を集めた。とにかく、周りのレベルが高かったことも、影響している。これは知識を身につけなければ、議論の土俵にも乗ることができないと思わされた。その危機感が、僕を読書へと向かわせた。そのおかげで、リーマンショックに関しては、基本的な枠組みとその背景知識を理解することができたし、郵政改革については、未だその是非はわからないものの、何が起こっているのかということは、大まかに把握することができた。竹中平蔵氏の著作に触れた時には衝撃が走ったものだ。まるで竹中氏とそこで対話しているような錯覚に陥った。
このように、僕の関心は、世の中はどういう風に動いているのか、という点にあった。その後、実際に何かしらの活動に打ち込むよう動機付けられ、また、新たな指導者・ロールモデルと出会い、少し別の色合いを僕の人生は帯びていくわけだが、そこに通底する世の中への関心は途絶えることがなかった。
自分達の人生を生きているようで、自分達の人生を生きていない
前置きが長くなった。「この世の中はどのように動いているのか」という問いに対する答えは、前述のエントリを参考にすれば、少数の限られた人間の思想と恣意によって形作られ、それを超えた偶然の積み重ねによって、今の形に辿り着いている、というようなものになると思う。それは、まあ、それとして、いいのである。問題は、今の世の中が、少数の限られた人間によって作られ、しかも、その構造が今の自分たちを規定しているとしたら、どうだろうか、ということだ。
僕は、これに気づいた時、正直、目眩がした。というより、瞬間的に生きる気力を失った。なぜなら、自分がこれまで自分の意志で生きてきたと錯覚していた人生・社会は、実は少数の誰かによって生み出されたもので、自分はその範囲でしか生き・考えることを許されず、誰かの意志を埋め込まれる形で、自分の考え・価値観が形成されていた。--グロテスクな表現になってしまうが--敢えて正確な表現を用いれば、自分は--というより、今を生きる大多数の人間は--かつての少数の限られた人間(賢者、そして、権力者)によって、デザインされた仕組みの生産物で、自分たちは自分たちの意思によって生きているようで、その実、誰かの意志を埋め込まれた大量生産品の一部である、という事実に直面したからだ。一体、これまでの人生はなんだったのか。
完全な余談になるが、これに自分が気づいた時は、新卒一括採用の歴史について調べているタイミングだった。自分も含めて、周りの皆も当然のように参加する就職活動が、初めは、大学が限られていた影響で高卒を高級人材化するために始めた企業研修から始まり、その後大学の数が増え、企業と学生の接続を、大学と国が管理するようになり、数回生じた景気変動を乗り越えて、徐々に新卒一括採用の形が作られ、リクルートが現在に至る制度を本格的に整えることで成立した、ということに気づかされた時だ。細かい点になるが、そうであるならば、大学が増えた今、企業研修は必要なくなるはずだし、逆に言えば、今の状況で大学の役割って一体何なのか?という話にもつながりかねない。期待された教育機能を、今の大学は果たしていないのではないか。少なくとも時代の要請からは外れた存在として認識されて問題ない代物になってしまっている。加えて、自分たちが当然のように参加する就職活動が、これほどまでに(国や企業、大学の)恣意を反映したものであり、その設計に学生--就活生--の存在が抜け落ちていることに、衝撃を覚えたのである。--「僕らは誰かのために生かされているだけじゃないか!」--しかも、その構造が一人歩きしていることにも恐怖を感じた。今の権力者の認識は知らないが、少なくとも、今の新卒市場を本格的に設計した人は既にこの世に存在せず、そのままの仕組み・構造だけが毎年繰り返されており、その中で社会に必要とされる人材が、機械的に生み出されている。思考停止は本当に怖い。自分の人生を生きているようで、自分の人生を生きていない。そのことに気づかされた。自分の価値観にまで影響を与えた出来事である。
社会学的見地
これは、ただまぁ、なんというか、社会学的には非常に正しい、というより、健全で、通常なことであり、どういうことかと言えば、今の世の中は確かに一部の限られた人間によって設計・形作られているが、それはそれで問題はなく、その中で人間の<意思>が確かに存在していることも事実なのである。つまり、今の社会や世界が自分たちを形作り、自分たちの考えに大きな影響を及ぼすことは事実であるが、今この瞬間の自分たちの意思・考えは、間違いなく自分たち各自のものであり、これらの意思・考えは、改めて世界・社会に影響を及ぼす。そして、この連関・循環さえうまく回れば、全く問題はない。その循環がうまく設計されているか、うまく機能しているか、ということだけが、ここでは問題になる。
なので、パーソンズの議論は、極めて的を射たものだったと言えよう。パーソンズは、ホッブス的な性悪説も否定し、ロック的な性善説も否定したものの、人間の健全な意思--「内なる光」--を後天的に埋め込むことは可能であり、社会はそのようにデザインされなければいけない、という趣旨のことを言っていて、確かに自分たちは、歴史的な設計に大きな影響を受けるんだけれども、その影響と結果が正常であれば問題はないし、少なくとも自分たちには今現在の<意思>は存在している。
そう考えると、考えるべき問題は、いかに今の社会をデザインする/されるべきかということであり、そのために自分たちがいかなる意思を持つべきか、ということになる。そのためには、今の世の中の構造とその歴史に自覚的になる必要があり、その中で自分を位置づけ、自分の役割を考える必要がある。<歴史>の推転を早める、ということが、自分たちの使命になる。
最後に、
話がかなり複雑になってしまったが、なんとなく、自分の探求に一区切りがついた。この先はまた、この先考えよう。
ではでは。