日々の気付きと時々、振り返り

しがないセールスエンジニアが日々考えてることをまとめたもの。

新自由主義の限界に対する考察 --政治哲学について--

以前こんなエントリを書きました。じゃあ、その後はどうなったのか、ということですが、なんとなく個人的に考えていることを書いてみようと思います。

 

とにかく機会の解放は必要だと思う

主に政治において、大きな政府(ざっくり言うと福祉充実)と小さな政府(規制緩和・民活)のどちらがいいのかという議論によくなるが、基本的には小さな政府で良いのだろうと思う。様々な規制を、混乱を生まない範囲で緩和して、競争原理を持ち込んで、とにかく流動性を高めて、機会の解放、誰もが意志と努力で挑戦できる、こういう環境が必要なんじゃないか。なぜなら、僕個人として競争原理自体は結構優秀な動機づけエンジンだと思うし、何より全体を考えるとやっぱり全員にやらせてみて、その中で一番良いものを採用というのが、もちろん一方の立場が強すぎて酷なんだけど、普通に考えて一番賢い選択肢だと思う。それに加えて、今の世の中が複雑化、変化も早すぎて、政府みたいな一つの主体じゃ対応しきれないという背景もある。昔みたいに、おおまかに方向性が決まってて、しかも、その方向に割と恣意的に色々なものを動かせる(政府関連機関とか)という時代はもう終わったし、日本中、世界中の、最もうまくできる人達が、各自取り組む、緩い方向性だけ示して、後は任せた、というのが、21世紀型の統治方法だと思うんだよね。
 

 

それじゃあ敗者はどうするのか

ここで問題になるのが、競争っていいことばかりではなくて、競争が過激になればなるほどみんなもっと頑張らなければいけないし、頑張れない人は負けちゃって不遇の時代を過ごす、ということ。そんなギスギスした世界、ほんとに幸せなの?っていう。で、僕はこれ、ある程度仕方がないんじゃないかって思ってる。だって、あらゆる機会を解放して、競争環境を整備して、負けたら、それはなんというか、その境遇を自分で選んだ、ということになるんじゃないかな。そこで何くそと思って、努力・試行錯誤すればいいし、それができないなら--不本意にせよ--それを選んだ、ということになるんだと思う。少し残酷だけど。ただ、じゃあお年寄りとかハンディキャップのある人はどうなの?とか、競争に負けて死んじゃう人がいてもいいの?っていうところがあるんだけど、それはやっぱり僕もよくないと思う。で、僕がずっと気になってたのは、それは良くないにしても、それを正当化するロジックってなんじゃらほい、ということなんです。善意、もそうかもしれないけど、善意ってその時の気分によるし、すごく頼りなくて、あんまり好きじゃないんですよね。で、その結果考えたことは、一つは共同体の機能。もしかしたら、自分も同じ境遇になるかもしれない、その時には自分が所属している共同体にお世話になる、お互い様だから自分もできることをやらせてもらおうというもの。保険の仕組みと一緒ですよね。みんな保険金払って、そのプールから賠償とか、そこらへんのお金がでてくる。これが税金とか、その辺りの話になる。ただ、それ以上は?というところは、やっぱりなんとも言えない。頑張った人がそれ相応の報酬を手にするのは、至極まっとうなことだと思うし、そうあるべきだと思ってる。だから、強いもの、持てるものが何かする義理って実はないんですよね。そこらへんはニーチェも言ってますけど。道徳は弱者の独りよがりのわがままだって。じゃあ、なんで自分の報酬を他の人に分け与えるかと言えば、それはやっぱり人情なんじゃないかと思うんです。可哀想だからとか、自分は少し余裕があるからとか。そういう脆いけど、すごく原始的な気持ちから、助け合いが生まれるんじゃないかって思うに至りました。だから、ノブレス・オブリュージュが、案外大事だと。そういうことじゃないかと思うんです。ほんとはもっと書こうと思ったのに想像以上に長くなってしまった…。また今度、機会があったらまた書きます。
 

最後に、

正直、色々読んでもあんまり答えは出ませんでした。結構考えることは誰でも一緒みたいで。だから、今回のエントリは大体僕自身の考え・価値観です。このテーマは引き続き考えてみようと思います。もっと具体的に落とし込まなきゃいけないしね。
 
ではでは。