日々の気付きと時々、振り返り

しがないセールスエンジニアが日々考えてることをまとめたもの。

自分の心に素直に生きるために大切なこと --気づけば自分に騙される--

昨日、久しぶりにこのブログのアクセスカウントを見てみたところ、いまだに一定数のアクセスがあることに驚きました。そして、今日、個人的にとてもよいことがあったので、忘れないようにと思って、久しぶりに記事に書き留めておこうと思います。

 

僕の病理

僕は大学に入ってから常にその論理的矛盾を指摘されてきました。一度僕が話すとなると、最終的に「よくわからない」「論理的一貫性に欠ける」という意見を持たれるのです。それを僕は年齢や身分、そして、どこで身につけたかわからない要領の良さで切り抜け、ごまかしごまかしここまで来ました。時にボロを出しつつ、時にそれに気付きつつ。

 

ただ、それはある意味ノイズだろうと僕はずっと思っていました。彼らは色々いうけど、所詮僕のことはわからないし、僕の人生に責任を持ってくれるわけでもない。ただ僕が話したことに対して、そこまで深く考えもせずに、論理的に考えられる範囲で何か意見を述べているだけだろうと。最終的に、僕が考えている通りに、僕の思惑通りに、物事は進むだろうということを思っていましたた。僕が考えていることは、あまりに複雑で、説明するのが面倒で、うまく伝えられないだけだと。伝えるのが面倒なので、先に形を示してしまって、「ほら、僕はこういうことがやりたかったんだよ。」ということを示したかったんです。なので、徐々に人とのつながりを断ち(話すと確実に同じ話の展開になり、もう言われることはわかっているし、そして、その結論から導き出される自分への評価・印象は酷いものだとわかっていたので)、まるで研究室にこもる研究者のように、自分がやっていることに没頭してきました。

 

それでも、無視できない不協和音

僕の人生の中に、些細だけども、決定的で、決して忘れることのできない瞬間があります。それが就活の時です。就職活動を終えて、自分の進路について考えていた時です。初めはボロボロ落ちた面接でしたが、徐々に練習を積み、滅多なことでは落ちないほどに成長した就職活動でしたが、幸いなことに複数社内定をいただき、いざ自分の入社先をと考えた時、僕が進路として選びたかった会社は、なんとそれまで入社をあまり考えていなかった会社でした。その企業を含めて3社、特に行きたい会社があったのですが、最終的に進路に決めた会社以外の2社は、かねてからずっと行きたく、周りにも志望先だと公言していた会社でした。そして、立派に筋道の通った志望理由もありました。しかし、最終的に選んだ会社は、それらの志望していた会社ではありませんでした。あまりにその直感が強いものですから、これはきっと何かあるのだろうということで、その会社に決めたのですが、この「自分でもよくわからないもう一人の自分」に出会い、これは一体なんなんだろうか、ということを考えていました。なんと僕にはもう一人の自分がいたのか、お前は一体誰なんだ、ということを強く思いました。

 

結論から言えば、それらの2社を志望していた自分は、おそらく社会や世間、そうした外部のプレッシャーから形成された「外向けの自分」でした。それは僕の本心から数mm離れて、浮遊し、元々あった原型に、様々な圧力がかかる形で成形されたもう一人の自分でした。そして、確かにそれは「仮の自分」でした。本当の自分、というより、感情の自分はずっとどこかに隠れていたのです。そして、それが顔を出したのが、進路選択の時、自分に本当に大切な選択を迫られた時だったのです。あの時、顔を出してくれて本当によかった。こんな経験ってやっぱりみなさん、あるのでしょうか。それとも、これは僕だけのことなのでしょうか。

 

いずれにせよ、当時の僕にはそれがわからず、釈然としない気持ちを抱えながら、あれはなんだったんだろうという気持ちを抱えながら、また日常に戻っていきました。きっと解消しなければいけない疑問なんだろうな、ということを心の中ではわかっていながら。

 

常識、脳のフィルターについて

「見方のフィルターを外さなければね。脳のフィルターを外すこと。なんていうかな、ある意味、洗脳でね。仕掛けられちゃいけないんだよ。全部同じ人間なんだから。この世の中を作ったのも。あらゆる仕組みを作ったのも。それに仕掛けられちゃいけないんだよ。」

 

これまで僕の表面上の問題を指摘する人はいました。ただ、どれも「んなもん、言われなくてもわかってるわ」という感じで、そこから一歩進みませんでした。ただ、上の言葉が、彼がどこまで意図して言ったのかわかりませんが、僕の中に強烈な光を投げかけ、そうか、そういうことだったのか、ということを思わせてくれました。

 

つまり、問題はこうです。すでに先ほど答えはお話ししていますが、僕は実は「常識にとらわれていた。」それは想像以上に。想像以上に大きな範囲、そして、大きな力で常識に縛られていました。僕はそれをこれまであまり意識していませんでした。しかし、考えてみればそうです。僕の人生を振り返ると、「僕は常識に縛られていた」という仮定を置くことで解ける謎はたくさんあります。何より一貫性があります。僕は常に何かしらの意見を参照にする際には、その一貫性、説明可能性についてとても意識するのですが、その前提に立った途端、あらゆる謎が氷解してきました。「なるほど、そうだったのか。」それが今日、僕が抱いた感想でした。

 

かつてスティーブ・ジョブズの下で働いた友人から、スティーブ・ジョブズも同じようなことを言っていたと聞きました。同じ人間が考えたルール、自分がそれよりよいものを考えつかないという理由があるか、と彼はそういったそうです。

 

自分の中の「常識」

常識を疑うというと、おおげさですし、言い古されたことですが、自分で自分の常識を作ること。自分なりのルールを作ること。そして、そのルールを絶えず改訂していくこと。それが何か新しいものを生むには、よりよいものを生むには必要なのではないかという気がします。


そして、そのためには物事を原理的に捉えること、物事の仕組みを理解し、仕組みを応用することで、何か変化を生もうとすることが大切なのではないでしょうか。最近、物事の効率を考えるのですが、一周回って初めに時間をかけて物事の原理を理解し、そのあとはそれに応じて必要部分にのみ、変化を加える方がいいのではないかという気がします。例えば、無線 Lan などの仕組みを知れば、ネット回線がつながらない時にどう対処すればいいかもわかるかもしれません。そして、もしかしたらよりよい通信方式が閃くかもしれません。これを癖にするだけで、人生の生産性は桁違いにあがるような気がしています。というより、自分だけが楽して勝てる、チートゲームができあがるような気がしています。誰もそこまで面倒なことはしようとしませんから。

 

※ここら辺は実は以前に書いた記事にも影響を受けています。世の中とは特定の個人が作っていて、そして、その個人の思想が体現された姿、それが今の世の中だと。こう考えると筋道が立つのです。


日本の権力構造について --この世を動かす限られた人間と、その思想-- - 日々の気付きと時々、振り返り

最後に、

僕は今、ある程度リスクを取れる状態です。なので、一旦、常識のタガを外して、自分の感性に従って生きてみようかと思います。そして、ダメな時は知性、知性がそこをなんとかしてくれると信じています。そこら辺は自分の根気強さを信頼しています。また何かあればご報告します。

ではでは。