日々の気付きと時々、振り返り

しがないセールスエンジニアが日々考えてることをまとめたもの。

努力は、本当に大切なことなのか --政治哲学を学び始めた理由--

最近、政治哲学なんてものを勉強している。元々、経済や経営、情報工学辺りに興味があり、あまり政治哲学という分野に慣れ親しんでこなかったが、ここにきて、である。

 

何が正しいのかわからない

というのも、最近、様々な人の考えに触れる中で、自分にとって何が正しいのか、自信が持てなくなってしまうタイミングが増えたからだ。特に、努力について、どこまでが個人の努力不足に帰着できて、どこからがその他の要因が絡むのか、そしてそもそも、努力不足は非難されるべきことなのか、という点について明確な答えを提示することができていない。今、非常に苦しい生活を送っている人が、例えば、中学時代にグレてしまい、学校の勉強を怠った結果、満足な学歴が得られず、それ故に職が見つけられなかった場合、その人は「正当な努力を怠った」として非難されるべきなのだろうか。それとも、誰かが救済の手を差し伸べるべきなのだろうか。(本人が援助を望んでいると仮定して)

 

もし、努力礼賛の立場から考えるのであれば、まず、学歴を得られなかったこと自体、「努力が足りなかった」象徴として語られる。更に、学歴がなくても、高給取りの職業に就けるかもしれない、本人の努力次第で、と考える。起業したっていいのだ。何より、彼/彼女らを見て、努力礼賛の立場の人間はこう考える。「自分達は努力してきたからこそ、今がある。だから、彼/彼女らが困っているのは努力をしなかった正当な報いだ。ましてや、これまで頑張って獲得してきたものを、彼/彼女らのような怠け者に分け与えるのは、もってのほかだ。」と。確かに、筋が通っているし、正しいようにも思える。

 

努力礼賛主義の限界

しかし、ここで難しいのは、①本当に努力不足が原因なのか、②たとえ努力不足が原因だったとして、彼/彼女らは切り捨てられるべきなのか、という点である。まず、1点目、努力不足が原因なのか、という点については、様々な場合がある、というのが答えになる。元々家庭環境が厳しく、毎日働き詰めで満足に教育が受けられなかったケース、これを個人の努力不足に帰着するのは、いささか酷である。しかし、何かがきっかけでグレてしまい、後から自分の過ちに気づいたものの、時既に遅し。これを外部環境のせいにするのは多少無理があるように思う。そして、何より、どこからが「個人の努力不足」で、どこからが外部要因が絡む問題なのか、線引が難しい。そのため、1点目について、明確な答えが出せない。次に、2点目。一旦定義は置いておいて、本当に個人の努力不足が原因だと判断された場合(そのようなケースがあるのか不明だが)、彼/彼女らは周りから見放されるべきなのだろうか。個人的には、ある側面、YESだと考える。黙々と努力をしてきた人が報われて欲しいという個人的な思いもあるが、何より、人は集団を形成する動物であり、集団を形成するからには守るべき原則、期待される役割が存在する。これに反した人間を、集団は見捨てる。これは正当なことだと思う。しかし、命を取るほど、生活を破壊してしまうほどのことだろうか。やはり同じ人間としてこの世に生を受けたからには、生を全うして欲しいし、最低限幸せな人生を送ってほしい。できるのであれば、そうした人も支えられるような世の中にしたいと本気で思う。しかし、ここにはトレードオフがあり、現実的な問題が存在する。そして、現実の政府も、まだ答えが出せていないままである。

 

政治哲学を学ぶ理由

こうした背景があり、政治哲学を学び始めた。果たして、過去の賢人はこうした問題にいかなる答えを用意してきたのか。自分より遥かに優秀な人達が、多くの手間と時間をかけて辿り着いた結論はいかなるものか、その片鱗に触れてみたいと思ったのだ。そして、思想の系譜を学び終えた後に、自分なりの答え、自身の哲学を再確認してもいいのではないか、そう考えた。

 

来る時代に向けて、自分がどのような思想を持つべきなのか。自分はいかなる価値基準の下、善悪の判断を下していけばいいのか。その答えを探るためにも、過去の賢人の力を、少しでも借りたいと感じたのだ。学び終えるのが楽しみである。

 

ではでは。