日々の気付きと時々、振り返り

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無縁社会に対する考察【追記】 --自由と不安、解放と剥奪、危険な隣合わせ--

昨日、無縁社会に関するエントリを書いたが、多少捕捉が必要だったので、改めて今回のエントリで追記する。

 

現代社会の正確な描写

前回のエントリでは、無縁社会は人々が望んだ結果であると書いたが、それは現代社会のある側面しか見ていなかった。それを社会学的には「解放」と「剥奪」と表現する。ここでいう解放とは、前回のエントリで示したような、前近代的で煩わしい人間関係から脱却を意味するが、一方で、それは濃密な人間関係が剥奪されたことも意味する。つまり、これまでの煩わしい人間関係やしきたりから逃れたものの、その結果、孤立の危機が高まってしまった。これが現代社会の構図である。

 

 

このことには2つの要因が絡む。1つは人間関係の維持に、多くのコストがかかるようになったこと、そして、人間関係の基盤が脆弱なものになったこと。この2つである。

これまでは人間関係はある程度所与のものとして用意されていて--家族は選べない、地域は移動できない、会社は辞められない--だからこそ、人間関係の維持に余計なコストをかける必要がなく、良くも悪くも人間関係は固定的だった。しかも、それら人間関係の根拠は、伝統に紐付けられ、期待された行動様式に従っていれば--親戚への挨拶、町内会への参加、飲み会への参加などなど--共同体から排除されることはなかった。それが現代社会になると、人間関係は着脱自由、所属する組織も選べて、自由を獲得したものの、人間関係の維持にメンテナンス--定期的にわざわざ会う場を設けるなど--が必要になってしまった。しかも、それら人間関係の根拠は、各自の感情や好き嫌いにあるため、極めて不安定で、嫌われたら最後、その人間関係は脆くも崩れ去ってしまう。そのため、現代人はいつも不安に晒され、人間関係の維持に必死になり、あるいは、それを諦め、個人の世界に引きこもってしまう。これが現代人が抱える不安の正体だった。自由の代わりに、不安と寂しさを手に入れた。これが現代の日本人である。

 

社会学を用いた、理論的理解

これをアンソニー・ギデンズは「純粋な関係」と表現しました。経済的要因や社会的要因など、外部的な要因に係留された関係ではなく、関係それ自体に価値を感じる「純粋な関係」。経済的成長や輸送技術・情報技術の発展に伴って、前近代的な人間関係から逃れる術を手に入れた現代人の関係は、徐々にこの「純粋な関係」に近づいていく、というのが彼の理論です。そして、純粋な関係の維持には、お互いのコミットメントが鍵で、積極的な関与がない限り、その人間関係は崩壊していくことになります。その結果、過度に相手の心境に配慮した関係が生まれることになり、「優しい関係」が構築されます。純粋な関係の中では、相手の満足や相互承認が大切になり、仮に自分が提示したパフォーマンスが不正解だった場合、その関係は崩壊することになるので、過度に相手の心理に配慮した「心理主義」に陥っていく。こう、社会学では理解されています。

 

現代の日本社会に対する所感

個人的には、今の日本の現代人の心を支えているのは、まだまだ家族だと思います。それは実感値としても、統計的なデータにしても、理論的な理解にしても。そして、家族の紐帯--連帯--の周りに、家族外の--危うい--紐帯が張り巡らされ、人々の心と生活は守られています。だからこそ、まずは家族を大切にすること、そして、豊かな家庭を築くこと、多様な人間関係を主体的に構築し、維持・洗練に努めること。これが今の日本人に求められることなのかなと、漠然と思います。本質的な解決である、共同体の復権、社会保障制度の枠組み、という話は、今後の課題で。ひとまず、こんな感じ。また考えてみます。

 

ではでは。