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リクルートポイントCMに隠された恐怖の正体

今、このCMが話題になっている。

リクルートによる、リクルートポイント浸透のための広告だ。

 


【公式】「すべての人生が、すばらしい。」リクルートポイントCM (120秒) - YouTube

 

CMはマラソンのスタート映像から始まる。多くのランナーがスタートと同時に飛び出し、主人公である池松壮亮演じるランナーも、時間の暗喩であるマラソンコースを走り抜けていく。少しでも遠くへ。用意されたゴールに向けて。それが前半部のコンセプト。しかし、画面が暗転、事態は一変する。「本当にゴールを目指さなければいけないのか」という問いが投げかけられ、皆が思い思いのコースを走りだす。それぞれの道があるという応援のメッセージが添えられる。「すべての人生が、すばらしい」この言葉に象徴されるように、一人ひとりの人生を肯定し、価値を認め、包み込む、見る人を魅了する素晴らしいCMになっている。

 

しかし、このCMを見ながら、ある種の怖さも覚えてしまった。なぜ恐怖を感じたのか。 

 

リクルートの功罪

リクルートはこれまで日本の労働観、労働市場に大きな影響を与えてきた。1960年に創業を開始して以来、1962年に創刊した『企業への招待』は、それまで推薦採用、縁故採用が主だった日本の就活市場を大きく改革し、効率性を高め、学生・企業双方にとってキャリア・採用学生の選択肢を開放した。その後、情報技術の発展に伴ってリクナビがスタートし、今の新卒一括採用の形式が形作られた。リクルートは日本の採用市場を作り上げた、まさに「日本株式会社人事部」なのである。

 

しかし、そのリクルートも1つ重大なミスを犯した。それがフリーターの増加である。1987年、アルバイト求人雑誌「フロム・エー」創刊に伴って、アルバイト人口を増大させる施策として映画『フリーター』を公開した。フリーターとは、フリーアルバイターの略だが、映画では金山一彦演じる石巻健次が羽賀研二演じる志水隆と一山当て、得られた資金を仲間に平等に分配するシーンが象徴的だ。なぜ平等に分配するのかと問われた石巻は「フリーターだからさ」という答える。つまり、フリーターを格好良いものとして打ち出したかったのだ。この目論見は半分成功し、半分失敗した。そして、これが大きな問題につながったと、個人的に考えている。当時映画を企画した道下裕史は、フリーターを「規制概念を打ち破る新自由人種。敷かれたレールをそのまま走ることを拒否し、いつまでも夢を持ち続け、社会を遊泳する究極の仕事人」と定義したが、現実のフリーターはそれほど力強いものにはなっていない。少なくとも「社会を遊泳」するほどの力強さはない。どちらかと言えば、現代の成功を収めている一部ノマドワーカーくらいを想定していたのではないか。これは、面倒な規則なんかに縛られなくてもいい、自分の好きなように自由に生きればいい、という自分に都合の良いメッセージばかりが受け入れられて、その裏に存在する、夢を実現するための努力に目を向けられなかったことが原因だと考えている。これがフリーター増加の1つの構図と言える。

 

このようにリクルートは日本の労働観に大きな影響を与えてきた。

 

時代を創ってきたリクルート

翻って今回のCMを改めて見てみると、なるほど、よくできている。ゴールの見えない競争に明け暮れる毎日に疲れてしまった現代の世相が、マラソンという形式で的確に表現され、最後、「すべての人生が、すばらしい」というメッセージで救済すらされている。

 

日本人はこれまで複数の段階を経験してきた。高度経済成長期の1960,70年代、バブルの80年代、バブル崩壊の90年代、そして、ゼロ年代、現代。高度経済成長期には、「いい学校、いい会社、いい人生」という標語に象徴されるように、社会的ステージが固定され、各ステージが定まれば、自分の人生も生涯規定されるという、常識にも近い雰囲気が漂っていた。その後、高度経済成長が終焉し、バブルの時期には、労働需要が跳ね上がり、多くの人に多くの就職先が開放された。

 

この、経済成長がもたらした、キャリア選択上の自由度の向上--余裕--とセットで生まれたのが、いわゆる「自分探しブーム」である。源流はニューソート(新思考)、ヒッピーなどにあると言われるが、とにかく、海外に飛び出し、ボランティアに従事するなど、「本当の自分」探しに奔走する人が続出した。

 

この自分探しに疲れてしまったのが現代、ポストゼロ年代ではないかと思う。経済成長という「大きな物語」が終焉し、人生の指針を自ら模索する必要があるのに、どれだけ自分探しをしても、待っているのは「終わりなき日常」のみ。けれども、走ることをやめてしまうと、社会に取り残されてしまう。この終わりも報いもない競争に疲れてしまい、「あれ、この先には何もないぞ。なぜ自分は頑張っているのだろう。そもそも頑張る必要はあるのだろうか。」という思いを抱いているのが今の多くの日本人の、正直な気持ちではないだろうか。

 

そう考えるとこのCMは非常によく出来ている。時代の移り変わりを巧妙に表現した、文字通り画期となるCMだ。

前半部のマラソンは、それまでの競争社会を、そして、後半はもちろん、今の日本人の多くが抱えている鬱屈とした思いを。最後、「あなたの人生は、美しい。あるがままに生きよ」--すべての人生が、すばらしい--という救済のメッセージ。そうか、それでいいのかと、多くの人が受け入れやすい構成になっている。

 

同時に、自分が感じた怖さの正体もここにある。自分ではない誰かに作らされた社会の雰囲気に踊らされる自分と人々。それはリクルートが時代の移り変わりを的確に表現した--リクルートがCMを作らなくても、時代が移り変わるのは時間の問題--だけなのかもしれない。けれども、若干の全体主義的な匂いを感じたことは事実である。CMを楽しむことに問題はないが、そこに無自覚であるよりは得られるものも多いのではないかと思い、今回このエントリを書いてみた。

 

しかし、良いCMですね。清々しい気持ちになりました。

 

ではでは。