日々の気付きと時々、振り返り

しがないセールスエンジニアが日々考えてることをまとめたもの。

民間企業の限界と企業・個人の社会的責任

昨日の続きで、以下の本に関連したエントリなんですが、読みながら電博(一部の利益を追求するよう動く主体、これは電博に限らず、民間企業などあらゆる主体のことです)の役割・振る舞いにも一理あるようなぁと思ってしまいました。

 

電通と原発報道――巨大広告主と大手広告代理店によるメディア支配のしくみ

電通と原発報道――巨大広告主と大手広告代理店によるメディア支配のしくみ

 

 

 

営利活動を行う、民間企業の限界

どういうことかと言えば、電通博報堂のような広告代理店は、「広告」を作ることが仕事であり、クライアントの広報を「代理」することが求められた役割であります。要は、これが仕事です。そう考えると、もし自分がある企業の広報担当だった場合、何か不祥事が生じた時にリスク対応しない、あるいは、何か情報集めに奔走しない、ということがあり得ましょうか。僕は、あんまりないんじゃないかな、という気がしています。なので、ここで述べられているような広告代理店のメディアへの影響力は、すごく自然、当たり前のことではないかと思うに至ったんです。

 

そう考えると一体何が問題だったのでしょうか。個人的な考えですが、これには2つの考慮すべき点が存在している気がします。一つ目は、「誰から対価・報酬を得ているか=誰の課題を解決するために存在しているか」。二つ目は、「自分がどのような倫理観を持つべきか=何を正しいとして、どのように振る舞うか」

 

一つ目から書いていきます。ここで問題になるのは、例えば広告代理店など、ここで登場する各プレイヤーは自分の利益・役割に忠実に従って行動しただけで、論理的には・局所最適的には、誤った行動を取っていません。ここで問題になるのは、これらのプレイヤーが一体誰から利益を得ているか、誰のために行動しているのか、という点です。つまり、ここで問題になるのは各プレイヤーが誤った行動を取ることではなく、特定の誰かから利益を享受し、その人(あるいは、自分)のためだけに行動してしまった点にあります。そして、ここに民間企業の限界がある、というように思います。これが行政であれば、「誰のために」は「国民のために」になります。要は「みんな≒社会」です。(ここでいう「国民」、「みんな」は誰だ、というのは複雑な話になるので割愛します)逆に、NPO非営利組織であれば、定義上「利益はいらない≒特定の誰かには従わない」という話になります。そのため、民間企業に属する限り、特定の誰かの利益を尊重する、という構えを取らざるを得なくなります。どこかで見た構図ですね。集票装置である後援会(特定の地方・権益集団)の利益を代弁する代議士、特定の業界の利益を代弁する族議員。どれも似た構図です。なので、ここから導きだされる答えとしては、営利を追求する民間企業の活動には限界があるということ、そして、今の資本主義社会で、市場原理に従い、皆が自分の利益のために奔走すると、社会を支える存在が誰もいなくなり、経済が回っても社会が回らない、という事態に陥ってしまう、ということなんですね。加えて、企業は様々なステークホルダー(株主など)からも影響を受けます。なので、企業の社会的責任(CSR)、ということが声高に叫ばれてきたのもわかる気がします。(企業が営利活動を通じて貢献している)社会と(各企業が貢献している集団を超えて広がる)社会には、大きな違いがある、ということなんですね。自分のことばかり考えず、皆のことも考えろよ、と。これは社会学的にも非常に整合的な議論になります。個人主義に陥った途端、個人の抱えるリスクは増幅し、個人が非常に危険な環境に晒されることになります。なので、企業は営利を追求しつつ、社会(他者)にも目を向けろよ、というのは、極めて真っ当なメッセージになります。

 

ここまでの議論で、企業が自分の利益だけでなく、社会(他者)の利益にも目を向けた方がいい、ということはわかってきました。それに加えて、別の視点を取り入れるとすれば、何が正しいのか、という問題が首をもたげてきます。どういうことかと言えば、ここで問題になっているのは、「電通が自社の利益を優先した」ということと「電通が不正を犯した」ということであり、2つのレイヤーに問題が跨がっていることがわかります。もちろん法律を犯した場合には罰せられるんですけれども、法律を犯さない範囲でも「これは間違っているんじゃないか≒社会的に問題があるんじゃないか」と思う瞬間はあったのではないかと思います。つまり、これまで企業というレイヤーでしか議論を進めてきませんでしたが、一つレイヤーを落として、個人、あるいは、市民というレイヤーで見た場合、個人・市民として誤っているという判断を下す場合があるのではないかということです。この場合、上司との関係や組織内での立ち位置など、組織の力学が働く問題になってくるのですが、これが本文中にも出てくる責任者左遷の話であったり、他の企業でもよくある内部告発、という例になってくるのではないかと思います。なので、一つ前の論点では、「企業が社会的倫理を持ちましょう」という結論でしたが、「企業の社会的倫理・役割を担保するために、個人が社会的倫理を持ちましょう」という結論になるかと思います。ここでもお金の流れが問題になります。個人は、多くの場合、組織から報酬を得ているので、非常に難しいんですが(組織のために奉仕しなければいけないのですが)、個人も組織を超えて社会的使命を果たすことはできるのではないかと思います。というか、そうしないと社会が回らないんです。誰かが善意と強い意志を持って動かない限り、社会の底が薄っぺら、最悪の場合抜けてしまった、非常にリスキーな世の中になってしまう、そういう時代を、私たちは生きています。

 

最後に、

なんとなく、最後は普通の結論になってしまいましたが、企業の社会的責任、個人の社会的責任という部分にまで考察が及んで、個人的に実りのある考察になりました。また、自分の身の処し方も含めて、今後共考えていければと思います。

 

ではでは。