日々の気付きと時々、振り返り

しがないセールスエンジニアが日々考えてることをまとめたもの。

シリコンバレーに向かう飛行機で考える、これからのグローバル化と求められる能力

さて、今日からアメリカでの生活が始まる。アメリカはシリコンバレー、正確にはシリコンバレーよりは少し北西に位置するサンフランシスコでの生活が始まる。シリコンバレーとは、実はかなり広い地域を指し、南はGoogleのあるマウンテンビュー、appleのあるクパチーノからfacebookのあるパロアルト、サンマテオまで、海外線沿いに緩やかに連なる、一連の地域を指す。その地域が途切れた先、北西部分に、これから僕が働くことになるサンフランシスコが位置している。最近ではITブームに拍車がかかり、サンフランシスコでビジネスを行う若者の増えてきた。おかげで地価が高騰し、手頃な物件を手に入れるのも一苦労である。最近日本でも名前を聞くようになったairbnbで住居を探しても、良い物件は即座に予約が埋まるという盛況ぶりだ。しかも、アメリカは車社会で、日本ほど交通機関が発達していないため、働きながら住める地域も限られている。アメリカは日本と違って、住居の平均的なサイズが大きく、ベッドルームも複数あるのが普通だが、時々家を空けたり、全てのベッドルームを使わない場合、空き部屋が出てしまい、もったいない。そうした状況を利用して、空き部屋をオンライン上に開放し、宿泊したい人を募り、それをビジネスとして回す、ということを始めたのがairbnbなのである。しかも、前述した通り、アメリカ西海岸での地価は上がる一方で、住宅不足が深刻なため、とにかく利用者が増えている。言葉は悪いが、非常に割のいい商売と、そういう訳である。しかし、これには裏があり、実はairbnb、通称ホテル法という法律に引っかかるのではないかという疑いが出ている。確かに、なぜこれほど割のいい商売がこれまで行われてこなかったのか、ずっと不思議だったのだが、アメリカにはホテル法という法律があり、こうした借家業を営むためには一定額の税金を納める必要がある。詳しい内容はわからないが、airbnbはこのホテル税の対象になるのではないか、という議論が噴出しているのだ。今のところairbnb自体はこれまで通り使えるみたいだが、airbnbも法律改正に働きかけているらしくどうなるかはわからない。ただ、これほどまでに人々に受け入れられているサービス、存続してもいいのではないかと個人的には思う。まさに自分もその恩恵にあずかっている訳で。

 

さてさて、海外で仕事をするのは初めてだ。幼少期から海外暮らしの方が長いくらいだったが、やっぱり生活するのと仕事をするのでは訳が違う。しかも、今回は一人で、家族もいない。いくらか年を重ねて、子供の頃よりはものを考えられるようになった今、思うことも多い。なので、今回は渡航の際の飛行機の中で思ったことを書いてみようと思う。

 

グローバル化とは、不確実性が増すこと

今回、アメリカに向かうにあたって、大韓航空仁川経由でサンフランシスコに向かった。大韓航空、当たり前だが、皆韓国語を話し、表記のほとんどが韓国語である。現地で英語を用いて十分な品質を保ったまま仕事をできるのだろうかと考えていた矢先、大韓航空に乗り込み、英語の表記に安堵するという事態に直面した。英語がある、これだけでなんと安心できることだろうかと実感したのだ。何せ韓国語は全くわからない。日本人がよく口にする「いや、英語は苦手で~」というレベルではなく、これまで一度もしっかりと学んだことがなく、はっきり言って韓国語は何もわからない。しかも、客室乗務員、なぜかナチュラルに韓国語で話しかけてくる。言葉が全くわからないとは、これほどまでに不自由なものなのかと実感した。そんな、周りで何が起きているかわからないような状態で、僕のアメリカ生活はスタートした。しかも、トランジット、仁川経由でアメリカに向かう関係か、機内の国籍も多様である。もちろん韓国人、日本人も多いのだが、ブラジル人や一見どこの国の人かわからない人も多い。それが何を意味するかと言えば、国籍が違えば、常識・前提・行動規範が違い、それが交わると、カオスな状況になる、ということである。日本にいるとなかなか気付かないが、日本は極めて同質性が高く、外国籍の人も増えてきたとは言え、国内にはほとんど日本人しかいない。中にはよくわからない行動をとる人もいるが、基本的には日本人というだけで同じような前提を共有し、同じような行動規範を擁する。つまり、大体の行動は予測できる。--機内で即座に裸足になり、機内食にはコチュジャンを頼む、という日本人はなかなかいないと思う。というより、流石大韓航空。頼めばコチュジャンの小さなチューブが出てくるのには驚いた。これなんかはかわいい例ではあるが、つまりはそういうことで、まるで予期しないような行動を”平気で”取る人がいる、という点を強調したい--それが国籍が変わると、常識・前提・行動規範そのものが入れ替わる。そのため、次に取る行動を予測できなくなる。しかも、周りは外国語。周囲の状況もわからなければ、周りの人が取る行動も予測できない。例えば、日本と韓国。二つの国籍の人しか存在しなければ、まだいい。自分とは異なる韓国籍の行動パターンを把握して、次から予測すればいい。しかし、国籍が混ざるとやっかいである。行動パターンを認識しきれず、しかも、把握できたとしても、複雑すぎて次の行動予測を処理しきれない。なので、「何が起こっているかわからず、何が起こるかもわからない」という非常に不安定な状態に放り出されるということになる。その時感じるのは恐怖だった。「ああ、確かにそうだったな」と、昔を思い出して、改めて確認した。当時、小学校低学年の僕は、アジア系特有の気の強い口調と振る舞いに恐怖したことを覚えている。それはもちろん単純な凶暴性に恐怖した、ということでもあるのだが、それに加えて、何が起こるかわからない、安全地帯--日本--から抜け出して不確実性の高い環境に放り込まれたことに対する恐怖もあったことは事実である。その時と似た感覚を味わった。

 

つまり、僕の経験・認識でものを語れば、グローバル化がいわゆる”欧米化”ではなく、本当の意味でグローバル化とするのであれば、英語が使えることは稀で、英語を母国語とする人と協働することはもっと稀で、英語に出会えればラッキーであり、英語に出会えても、お互い訛りの強い、たどたどしい会話になることが必定である。英語の広がりは、実は恩恵で、日本人にとって、他の国の人にとって、英語という曲がりなりにも多くの人に理解のある言語が広まったことは、実はすごくありがたいことだったのである。もし、このままグローバル化が進めば、一定の職に就く人にとっては、これからどこで仕事をすることになるかはわからず、その場は決して英語が通じるような、いわゆる”グローバル化”のイメージが持つような洗練されたものではない、ということになる。

 

グローバル化する世界で求められる能力

そのため、よく言われているようなグローバル化に備える能力として必要になるのは、多様な環境に身を置きまくることで、自分の中の多様性ストックを蓄積していき、予測可能性を上げていくこと、そして、不確実性の高い環境に身を置き続けることで得られる多様性ストックで対応できなくても物怖じしない度胸・警戒心・柔軟性・機敏さという要素になるのではないかと思う。「ああ、このパターンね」という余裕を持つことと、「おお、今度はこういう感じね」という不確実性を楽しむ余裕を持つこと。この二つが、少なくとも、求められてくるのではないかと思う。

 

最後に

これまでグローバル化とよく言われ、グローバル人材の必要性が標榜されていたが、いまいちその重要性が掴めていなかった。これからの社会情勢と、それに必要な能力。その一端をなんとなく感じられた。これは財産なのかなと思う。ただ、僕が感じた一連の出来事は、この大きな流れのごく小さな一部である。まだまだこの先、思いもよらないことに出くわすのだろう。その度に吸収し、言葉に落とし、そして、こうしてささやかながら発信していきたいと考える。

 

ではでは。