本物の知性に出会い、選び取ること
本物の知性、誰に従うか、誰を自分の人生の指針に据えるかという話があることに、最近になって気がついてきました。僕は、自分でいうのも難ですが、昔から非常に素直な人間で、言ってしまえば、すごく馬鹿な奴でした。だから、大人の話をよく聞きました。大人…学校の先生、両親。周りの教えを素直に吸収していきました。僕の中で、「大人」の区別がなかったんですね。知性ある、正しい大人と、そうでない大人を区別してきませんでした。それはそれで得られる部分も多かったとは思いますが、やはり失ったものも多いかな、という気もします。
この年になると、世の中の動きがだんだんわかってきます。そうすると、世の中には「大した人間」と「大したことない人間」がいるんだなということも、誠に残念ながらわかってきます。そして、自分は「大したことある人間」の意見に耳を傾け、それを参考にした方がいい、ということにも気付いてきます。それは多くの書物に触れ、様々な「スゴイ奴=本物の知性」に触れ、「あれ、どうやらこの人は自分よりものを知らないようだぞ? あれ、自分の方がずっと昔から色々ものを考えてきたぞ?」と思う機会が、徐々に、確かに、増えてきました。
選べない人間関係・偶然に左右される出会い
両親は選べないんですね。学区の小学校なんかに通ってると、通常先生も同級生も選べない。とにかく用意された区分・集団に従っている内は、自分の人間関係を選べないんですね。だから、そこに本物の知性--「スゴイ奴」--が紛れ込んでいればいいんですけど、やっぱりそれは運に左右されるんですよね。偶然性に左右される。つまり、リスクが高い。だからこそ、ある程度高いハードルでスクリーニングされた環境に飛び込むことは、一定の合理性を有すると僕は考えるんです。(頑張らなければ得られない世界・物があることに最近やっと気付いた)「スゴイ奴」に出会える「可能性」が高いから。ただ、それもまだ可能性の話で。だからこそ、僕が声を大にして言いたいのはそういう数少ない人を意識的に探し求めることが大事だと。そのためには、たくさんの人・考えに触れて、その中で自分なりに考え・選択していくことが大切ではないかと考えます。もちろん、最初は間違えます。そんな選球眼・審美眼はありません。だから、学べばいいんです。「この人はここがすごいと思ったけど、違ったな。こういう良くない点がある。だから、自分はこうしよう…」この繰り返しが、徐々に選択の精度を上げていくのではないかと思います。
人生を変えた出会い
幸いなことに、僕は高校を卒業する直前にそういう人に出会うことができました。いや、不幸なことなのかもしれません。僕の同期には、そういう人にもっと前から出会っている人もいました。ただ、僕の場合は、高校直前にそういう出会いがありました。そこからの生活は、がらっと色合いを変えました。僕の性格が再度作り直されたと表現してもいいでしょう。とにかく、それまで教えられたことはきれいに洗い落とされ、新しいきれいな考えを入れ込まれた気がします。それが続くように、大学では様々な人との出会いに恵まれました。これもそのハードル・スクリーニングが、実は作用しているのかもしれません。でも、自分の発する言葉・取る行動が変わったからこそ出会い、関係を紡げたことも多かったように思います。やはり、高校時代の出会いは、大きな経験だったと思います。
だからこそ、今、自分が従うべき人間。従うというと変ですね。指針とするべき人間・考えには、敏感、かつ、貪欲です。疑う姿勢が身に付きましたし、何事も自分で考える癖が身に付きました。悪く言えば、卑屈になったのかもしれません。とにかく、何を自分の指針とするか。これが年を取る毎に重要性を増していく気がします。徐々に誰も経験してない/明快な答えを出せていないことが増えていくのですから。もう、高校時代の先生では決して教えきれない問題ばかりが、自分の地平には広がっています。一部を除いて、僕の高校時代の先生は「本物の知性」ではありませんでした。それが今になってわかることに、一抹の寂しさも覚えます…。
最後に、
最近では、宮台真司氏の著作をよく読んでいます。彼の言葉を借りれば、また「感染し、卒業する」のだと思います。そうして、徐々に自分の人格が洗練されていくと。
ではでは。