日々の気付きと時々、振り返り

しがないセールスエンジニアが日々考えてることをまとめたもの。

本場シリコンバレーで感じた日米ベンチャーキャピタルの違い

先日こんなエントリを書いた(本場シリコンバレーで目にしたベンチャーキャピタルの実際)。その続きを少し書いてみようと思う。ただ、体系的な説明というよりは個人の感覚なので正確性は全く担保できない。しかし、日本にいながら日本版ベンチャーキャピタルのシステムを夢想した人物が、実際に本場のベンチャーキャピタルシステムを目の当たりにして感じたことを記すことは多少意味があると考え、こうして筆を取っている。結論から言えば、日本のベンチャーキャピタルとアメリカのベンチャーキャピタルは、(恐らく)全然違うものだった。

 

ベンチャーキャピタルが本当に憧れの的

アメリカはシリコンバレーには、Athertonなど、高級住宅街が存在する。門から玄関まで、遠い道のりが続き、傍目からも高級住宅街であることがすぐに分かる。敷地内で馬を買っている人も多い。これら高級住宅街を所有するほとんどがベンチャーキャピタリストなのだ。10億円を下らない住居も多い。そして、これは実際にその場に行かなければわからないことなのだが、その一角からは見るからに成功者の香りが漂い、誰もがその成功をいつか手中に収めたいと思う。いわばベンチャーキャピタリストは成功の代名詞として凛然と存在している。そのため、その一帯のアメリカ人にとっては、成功=ベンチャーキャピタリストという図式が成立する。日本でも、確かに成功したベンチャーキャピタリストは桁外れの財産を保有しているが、正直庶民にとって、あまりイメージがわくものではない。なりたいかと言われれば、そもそも何をやっているのかよくわからない、というのが現状だろう。アメリカ人、少なくともシリコンバレー一帯に居住する者にとっては、近くて遠い、そんな存在なのだ、ベンチャーキャピタリストは。

 

桁外れの資本とそれを可能にする格差

実際に10億円を超える住居を目の当たりにするとわかるが、彼らの保有する資産は並外れている。プールはもちろん、テニスコート、バスケコート完備。気持ち晴れ渡る彩り鮮やかなビューと広大な敷地は、訪れたものを心からの安らぎを提供する。日本では、広大な敷地が存在しないのはもちろん、それほどの大富豪はたくさん存在するわけではない。それがゴロゴロ存在するのだ。高級住宅街一帯は似たような家で埋め尽くされている。それほどに規模が違う。だからこそ、リスクをとって挑戦しようという気概が起こる。要はリターンが莫大なのだ。しかし、それらの資金は一体どこから出ているのだろうか。それがアメリカ社会の格差を余りにも明確に象徴している。彼らの資金は、日々の生活もままならない、低賃金層に支えられているのだ。一方で、一生暮らしに困らないような人間が存在するかと思えば、日常生活を送れないという人々が、そこら中に存在する。これは成功者に多大な報酬を提供し、その代わりに格差を受け入れたアメリカ社会の性格と言えるだろう。社会が格差を認めるからこそ、大きなリスクとそれに見合う大きなリターンが存在し、生粋のギャンブラーと腕利き達はそのリスクに挑戦する。日本のベンチャーキャピタルは、その規模がまだまだしょぼいのだ。それは食いっぱぐれる人を生み出したくないという、二兎追いの中途半端さ、そして、日本人特有の優しさに裏付けられた、表裏一体の構造が、表出した結果なのだ。なので、もしアメリカ型の大きな成功を求めたいと思うのであれば、その裏に潜む格差を受け入れ、成功者を糾弾しない覚悟が必要となってくる。

 

広大な土地と陽気な天候

何をそんな些細な事を馬鹿にされるかもしれないが、確かに大きな要因として存在するなと感じたのが、アメリカ西海岸特有の温暖な気候と広大な大地である。あそこで暮らしていれば、自然と楽観的になるし、開放的な気持ちになり、新しいアイデアが生まれてくる気がするし、より挑戦したいと思えるような環境なのだ。それに対して、日本の都市はところ狭しと高層ビルが林立し、開放的な気持ちでアイデアを発散させるという場が存在しない。これは個人的な感覚かも知れないが、確かな要因として実感した。是非、実際に体感してほしいと思う。

 

最後に、

いつかエントリにしようかと思っていたが、構想と一次情報の乖離は凄まじいものがある。見れば一度でわかるものも、あれこれ考えていると、全然違うことを考えだす。逆に、実際に位置情報に触れると、本当にそんなことあるのか、という事実が度々明らかになる。月並みだが、一次情報の持つ力は大きい。そんなことを、アメリカ西海岸を訪れ、改めて実感した。

 

ではでは。