アウトプットの壁について
何かを修得するとはどういうことだろうかと考えていて、修得するとはアウトプットを生めるようになることと理解したので書いてみます。
何かを学ぶこと
何か新しいことを学ぶ際には、多くの人はまず勉強します。教科書なのか、取扱説明書なのかはわかりませんが、まずはやり方を学ぶ、つまり、知識をつけると思います。ただ、これだけでは修得したことにはなりません。その分野についてよく知っているけれども、なんだか使いものにならない。下手をすると頭でっかちな人だなぁと思われてしまいます。まるで辞書みたいなもので、それ自体には意味がなく、使う目的を付与してあげる必要があるような状態です。 (だからこそ、この上流工程の部分に希少性があり、仕事も高賃金になるんだと思います。)
アウトプットの難しさ
これはその人が無能なのではなく、アウトプットの難しさを認識していないことに原因があるのではないか、というのが最近の考えです。やり方を学べば出来るようになると考えがちですが、そうではなくて、やり方を学んだ後に何かを生み出す練習を挟む必要があると考えます。自分の中にそれまで存在しなかったアウトプットの回路を作り出す工程が必要になるんだと思います。初めは何もないところに回路を作るので苦労しますが、一度回路が出来上がると、後はその回路を整備するだけでよくなるので、必要な労力がぐっと少なくなります。この一連の作業を通じて、それまでものすごく労力が必要だったものが、低コストで出来るようになり、終いには振る舞いの一部に溶け込むことで、他に時間を割けるようになっていきます。
なぜアウトプットが難しいのか
アウトプットが難しい原因は複数の作業を一度にやろうとしていることにあると考えています。具体的に言えば、理解/設計/構築の作業の内、設計と構築を同時に行っていることがアウトプットを難しくしているのではないかと考えています。
これは僕が英語を勉強している時に感じたことですが、自分の場合、英語の記事は読めるのですが、英語の記事を書こうとすると途端に難しくなります。何が出来ないというのではなく、何を書けばいいのかイメージが浮かばないことが原因です。これはプログラミングの時と一緒です。ここで何が起きているかといえば、記事の内容を考えるという作業と記事の内容を英語にするという作業を一度にやろうとして、小規模なキャパオーバーを起こしているんだと思います。つまり、日本語で内容を考える作業(設計)と日本語を英語にする(構築)の作業を同時に行おうとしているのが問題だったということです。
修得するとはアウトプットすること
ここで初めの話に戻るのですが、アウトプットが出来て、英語の例で言えば、英語で記事が書けるようになって、やっと修得したと言えるのではないかなぁと考えています。一度習得した後は、今度は水準の話に移ってどれくらいの品質のアウトプットを出せるのかという問題になるのではないでしょうか。「日常的な出来事を英語で書ける」というレベルや「専門分野について英語で書ける」というレベルの話に移っていくんではないかと考えています。
少し余談になりますが、この構造、特に大きな初期投資が必要な構造を意識できるようになったことは、一人で色々学習することの収穫でした。学び始めはほとんど前進しませんし、途中で投げ出したくなりますが、初めの大きな山さえ超えれば、比較的楽な道が続いていると考えると案外余裕が持てたりします。自分は今初めの大きな山を登っているのだなぁと考えると、もう少し頑張ってみようかな、という気持ちになるのです。
最後に、
一人で学ぶのって結構時間がかかるんですよね。全体像がわからないですし、いちいち調べなければいけないので。ただ、自分で学ぶことで、その分野について理解している自信が持てたり、他のことに応用する土壌を作れたり、人に教えることが出来たり、習熟度が上がる気もしています。このバランスはどう取ったらいいのかなぁ、というのが最近考えていることです。
ではでは。